鹿児島簡易裁判所 昭和46年(ろ)141号 判決 1971年10月21日
被告人 天久盛正
昭一七・三・一九生 船員
主文
被告人は無罪。
理由
一、本件公訴に依れば、
被告人は、鹿児島、那覇間の定期貨客船おとひめ丸(総屯数二、九九〇、八〇屯)に二等機関士として乗組み、同船の機関の運転に関する業務の外、同船で使用する燃料搭載の際は油槽船の乗組員を指揮し、各燃料タンク等に設置されたバルブの開閉を行ない、所定のタンクに燃料を搭載する作業に従事していたものであるが、法定の除外事由がないのに、昭和四十六年四月十七日午前十時頃、鹿児島市城南町先鹿児島港第二区六号岸壁に繋留中の同船内において、油槽船第八共進丸から、おとひめ丸で使用するB重油を同船六番左右両舷タンクに搭載しようとしたが、このような場合、同船の燃料タンクは燃料搭載口からパイプにより五個のタンクが連結されているので、六番左右両舷のタンクの取入口および中間の各バルブを開き、八番左右両舷タンクならびに五番タンクの取入口バルブを閉鎖した上、同燃料タンクに搭載すべき注意義務があるのにこれを怠り、六番左右両舷タンクの取入口のバルブを開いたのみで、中間バルブ及び八番左舷タンク取入口バルブを閉鎖しないまま右B重油の搭載を開始した過失により、同日午前十時三十分頃、右重油を同船遊歩甲板左舷後部の八番左舷タンクに流入させて同重油約一八〇リツトルを同タンク空気抜より甲板上に噴出させ、その勢等により同重油の内約三六リツトルを同甲板排出口から船外に流出させ、もつて油を本邦の海岸の基線から五〇海里以内の海域に排出させたものであつて、被告人の右所為は、船舶の油による海水の汚濁の防止に関する法律第三六条第五条第一項、海洋汚染防止法附則第八条に該当する、と謂うところである。
ところが船舶の油による海水の汚濁の防止に関する法律(昭和四二年八月一日法第一二七号)(以下旧法と略称する)第五条第一項一号、第三六条に依れば、同法第五条第一項一号違反につき過失犯をも処罰する旨の特別の規定は存しないから、被告人の本件公訴の所為は罪とならないものと認め無罪の言渡しを為すべきである。
二、検察官の旧法第三六条の罰則は過失に因る旧法第五条第一項違反をも含むとの主張に対し、
旧法は昭和四二年八月一日法第一二七号として公布されたが、同法には前記のとおり刑法第三八条第一項但書の要請する過失犯処罰の特別の規定はなかつたのである。ところが昭和四五年一二月二五日法第一三六号海洋汚染防止法(以下新法と略称する)が制定公布され、同法附則第二条によつて旧法は廃止され、新法中第四条(船舶からの油の排出等)の規定は新法公布の日から起算して一年六月を経過した日(又は……略)から施行されることになり、その施行日の前日迄は新法附則第三条により旧法第五条の規定がなお効力を有するものとされ、新法附則第八条によつて、新法施行後にした旧法第五条違反の行為に対する罰則の適用については尚従前の例による旨規定された。旧法の規定に依れば同法第三六条には船舶からの油の排出について過失に基く場合の特別な処罰の規定はなかつたが、新法第五五条第二項においてはじめて「過失により第四条第一項(旧法第五条第一項に該当)の規定に違反して油を排出した者は三月以下の禁錮又は十万円以下の罰金に処する。」旨の特別なる規定が設けられたのであつて、被告人の本件公訴の所為はなお旧法を適用すべき事案であるから処罰の対象とならない、と解すべきである。
三、更に検察官は、旧法制定当時の昭和四二年五月三一日衆議院産業公害対策特別委員会議における大橋運輸大臣の答弁を引用して、旧法においても海域における油の排出については過失犯をも処罰する法意であると主張する。
よつて右大橋国務大臣の答弁を検討するに、
同大臣は
「……第三六条で違反となるような行為をした者は懲役または罰金という規定ができております。((イ) )この行為というのは作為及び不作為でございますから、したがつて、排出という結果を生ずることを知りながらある行為をした者、((ロ) )またはそれを防止するに必要な行為を怠つたもの、この両者を含んで罰則が適用になるこう思うのでございます。」と述べ、
続いて同大臣は
「((ハ) )その場合に明らかに過失に基づくものであるということになりますと、その場合におきましても、やはり罰をかけるという解釈だそうであります。」と答弁し
又続いての質問に対し、同大臣は
「この法案は修正の必要はないと考えるのでありまして「排出してはならない。」これが第五条の規定でございまして、その「排出」というのは、この条約(油による海水の汚濁の防止のための国際条約昭和四二年一〇月条約第一八号)を施行するためにできた法律であり、その条約の中には「排出」の定義がすでにうたつてあるのでございます。その条約で定義された「排出」という字句を使いまして、「排出してはならない。」こういう規定がある以上は、その「排出」という解釈は条約と同じに解釈することは解釈上当然でございます。それから「排出してはならない」という規定の違反となるような行為をした者は罰せられるというわけでございまして、行為には作為と不作為があります。すなわち((ニ) )排出という結果を生ずることを知りながら、あえてその原因となるべきような行為をした者、これは作為による違反であります。((ホ) )また排出という結果が生ずることが明らかでありながらこれを防止する行為を故意または過失によつて怠つたということは、これは不作為による違反でございまするので、法律解釈としては一点疑いを差しはさむ余地はないので御座います。」と答弁している。
前記大橋国務大臣の答弁中(イ)(ロ)(ホ)(ニ)の部分は、故意乃至未必的故意に該当する場合と解せられるところ、(ハ)の部分は明らかな過失の場合であつて、此の場合について同大臣は「……その場合におきましてもやはり罰をかけるという解釈だそうであります。」と述べている。即ち明らかな過失については殊更に明言するのをさけ、自信ある答弁ではないのである。大橋国務大臣の前記答弁全体から考えるに旧法第五条によつて禁止された海域における油の排出には純然たる過失に基づくもの迄を処罰する法意であるとは直ちには解せられないのである。
特別法に規定された法定犯につき、過失犯をも刑罰に処する法意であるか否かは、個々の法律に関しては早くより議論の存するところであつて、このことは法案作成関係者も早くより熟知していた筈であり、現に前記のとおり旧法制定時の審議の過程においても、過失をも処罰する趣旨であるかにつき論議が交わされたのに、特別の規定を明記するにつき何等妨げとなるべき事情もないのに、敢えてその規定を設けなかつたということは、旧法においては過失行為を処罰する趣旨でないことの証査ではあるまいか。
又、同大臣は前記条約に「排出」の定義が定められてあり本法もその条約を施行するための法律であるから、本法においても右条約の定義に従つて解釈すべきである旨答弁しておるが、右条約第一条には「排出とは油又は油性混合物についていうときは、原因の如何を問わずすべての排棄又は流出を言う」とあるのに、旧法第二条において九個の用語の定義を定めながら、排出のみについては定義を定めてないのである。而して規制を強化したと見られる新法でさえ、第三条に「排出とは物を海洋に流し又は落すことをいう」と定義したのみで、「原因の如何を問わず」という重要な語句がないのである。此のことは、条約に基づいて国内法を制定施行するに当り、必ずしも条約上の用語の定義にとらわれることなく、自国における産業活動、国民生活、環境状況等、自国の独特な事情等に則応して独自の立法をしたものであつて、旧法においても、新法においてもその「排出」という用語は条約に定めた定義のとおりではないことが明らかである。
更にまた、新法においては第四条第一項所定の船舶からの油の排出のみについて過失犯処罰の特別規定を設けたに止まり、海洋施設からの油又は廃棄物排出行為、その他については右の如き特別規定がない。又旧法においては総屯数五〇〇屯未満の船舶及び一五〇屯未満の油槽船、新法においてはタンカー以外の船舶で総屯数三〇〇屯未満のものは、何れも適用除外とされている。海水油濁防止という保護法益の観点から考えると右の如き適用除外例あることはいささか理解に苦しむが、それにしても、新旧両法とも右適用除外の船舶からの油の排出は、それが故意であるにせよ、過失であるにせよこれを不問にしているということは、海域の油による汚濁を絶対に防止するという程の強固なものではなく、従つて最初に制定した旧法の規定は、過失犯をも処罰するという絶対的な禁止規定ではないものと解せられる。
又、古来人類は無限大とも言うべき海洋は、すべての汚物廃棄物を呑み込み浄化する神秘的能力があるかのように考え、あらゆる廃棄物を作為不作為を問わず意識的に海洋や河川に投棄し放流して顧みるところがなく、海洋はそれ等(陸上で処理し切れない)のものの最終的投棄場所として必要にして無二の場所であつた。すなわち海洋や河川に対する廃棄物の投棄とか放流は作為にせよ不作為にせよそれは人間の故意行為とも言うべきものであつた。近年急速な産業の発展に伴ない海洋に投棄放出されるあらゆる産業廃棄物の量も著しく増大し、結局これによつて惹き起される海水や河川の汚濁は、次第に人の健康や生命を侵すことになり、その弊害は世界的に放置することを許さない状況となつたため、国際的にもその防止に関し協力の気運が高まり、各種の産業公害防止に関する取締法規を制定して、海域や河川、或は大気中に対する産業廃棄物の投棄放流放出を禁止又は制限する規制措置が急がれるようになつたのであつて、海水汚濁に関してはその当初においては、先づ差当り、海域への人の意思による投棄行為、放出行為そのものを禁止し、或は制限する趣旨であることはその保護法益と規制の対象たる行為の性質に鑑みるとき充分窺知できるところである。而して施行した法の運用状況効果等を検討した上、場合によつては取締りを更に強化し、或は緩和するなど法の改正が行なわれるのであつて、そのような歴史的過程において前記新法が制定施行されることになつたのであり、その新法において、はじめて第四条第一項一号の油の排出のみについては同法第五五条第二項の過失犯処罰の特別規定が設けられたのである。
以上検討した産業公害の防止に関する立法の歴史的過程、本法による保護法益の性質及び禁止する行為の性質、本法の全体的構成等を考えると、旧法においては、本件公訴事実のような純然たる過失行為はこれを処罰の対象としていないと解するのが相当である。
次に検察官は、特別法違反に対する刑罰は、故意犯のみならず過失犯をも処罰の対象となると解すべき根拠として、外国人登録令違反(証明書不携帯)に関する昭和二十八年三月五日の最高裁判所判例、及び古物営業法違反(帳簿不記載)に関する昭和三十七年五月六日の最高裁判所判例を引用するが、右各判例の判示事項は、当該取締法の目的や違反行為の性質等、本件とは著しくその性質を異にするので、本件公訴事実(過失による船舶からの油の排出)に対する処断につきその基準とすることはできない。
以上検討したとおり被告人に対しては無罪の言渡を為すべきものと認め刑事訴訟法第三三六条に従い主文のとおり判決する。